賛否両論の『ボヘミアン・ラプソディ』5回見てわかった「ラスト21分」4つのウソ——2018下半期BEST5

賛否両論の『ボヘミアン・ラプソディ』5回見てわかった「ラスト21分」4つのウソ——2018下半期BEST5

2018年下半期(7月〜12月)、文春オンラインで反響の大きかった記事ベスト5を発表します。エンタメ部門の第2位は、こちら!(初公開日 2018年11月24日)。

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 映画は嘘をつく。なぜか。観客に嘘を真実だと思い込ませるためである。映画『ボヘミアン・ラプソディ』(ブライアン・シンガー監督、2018年)はきわめて巧妙にこの逆説を生き抜いている。

 筆者は特別熱心なクイーンのファンというわけではない。正直に言えば、『ボヘミアン・ラプソディ』を鑑賞している間、「聴いたことはあるけれど、これもクイーンの曲だったのか」という体験を何度もした。そして、気がついたときにはすっかりこの映画に夢中になっていた。

 それでは、この映画の何にそれほどの魅力を感じたのか。クイーンの音楽そのものに人を惹きつける魅力があることは言うまでもないだろう。この映画に批判的な見解を示す人の多くも、クイーンの音楽を否定しているわけではない。むしろ、コアなファンほど、史実の改変や脚色を施された映画の物語を問題にしているように思われる。

 一方で、映画は世界中で驚異的な大ヒットを記録している。筆者のほかにもこの映画自体に魅力を感じた観客が膨大にいるのである。

 その魅力の源泉とは何なのか。筆者は映画研究者=批評家である。音楽的な知識には自信がないが、映画のことなら分析できる。というわけで、分析のためにこの映画を劇場で5回見てきた。その結果、ラストに置かれたライヴ・エイドのシーンが実に巧みな「嘘」に基づいて作り上げられていることがわかった。この記事では、クライマックスをなすライヴ・エイドの再現シーンに注目し、観客を取り込むために映画がどのような嘘をついているか、大きく4つにわけて解き明かしていこうと思う。

宣伝文句「魂に響くラスト21分」がすでにウソ


フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレック ©Getty Images

 ライヴ・エイドのシーンがいかに忠実に再現されているかは、すでに各種宣伝やレヴューでさかんに取り沙汰されている。使われている楽器や衣装はもちろん、会場となったウェンブリー・スタジアムのセットは、ピアノの上に置いてある灰皿や飲み物のカップ類に至るまで緻密に再現されているという。また、フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは、優秀なムーヴメント・コーチの助けを借りて、ライヴ当日のフレディの動きを忠実に再演してみせている。SNS上には、じっさいのライヴ・エイドを撮影した映像と映画の該当シーンを比較する動画もアップロードされており、人々はその再現率の高さに文字通り目を奪われている(この動画は現在までに860万回以上再生されている)。

 確かに一見したところ、2つの映像でフレディが見せる動きはよく似ているし、映画がスタジアムやステージまわりの各種小物にまで気を配っていることも窺える。だが、この2つの映像は、いくつかの点で決定的に異なっている。この違いに着目することで、映画の周到な戦略が浮かび上がってくる。

 ライヴ・エイドの「完璧な再現」を売りにするこの映画は、クイーンがステージ上でパフォーマンスを披露した時間がおおよそ21分であったことにちなんで、「魂に響くラスト21分」という惹句を宣伝に用いている。しかし、ここにはすでに大きな「嘘」がある。

「ラスト21分」実際の時間は……

 映画で描かれるライヴ・エイドのシーンは、じっさいには13分30秒しかない。確かに、ライヴ・エイドの演奏開始からエンディングで流れる2曲までを含めれば20分弱にはなるが、現実にクイーンの行ったステージ上のパフォーマンスが20分弱である以上、それを「完璧に再現」したと言うからには、劇中の対応するシーンの長さを揃えるのが筋だろう。

 ただし、筆者はこの嘘を批判したいわけではない。むしろ肯定的に評価したいのだ。7分以上も鯖を読んでいながら、そのことを指摘するレヴューがほとんど見当たらないのは、映画が成功している何よりの証である(もっとも、劇場にストップウォッチを持ち込んで時間を計りだすのはへそ曲がりな批評家くらいのものだろうが)。ほとんどの観客は、13分30秒の映像を21分のライヴ・パフォーマンスの再現として違和感なく受け入れている。つまり、21分というのは、物理的時間としては嘘でも、観客の生理的時間としては正しいのである。

 それでは、なぜこのような錯覚を与えることが可能になるのだろうか。その鍵を握るのが、再現シーンがついている2つ目の「嘘」である。

再現シーンに費やされているショットは実際の3倍

『ボヘミアン・ラプソディ』の再現シーンと、じっさいに行われたライヴ・エイドの記録映像の二つ目の違いは、そこで費やされているショットの数である。記録映像(YouTubeでも視聴できる)が21分を175のショットで構成しているのに対して、再現シーンは13分30秒を約360のショットに割っている。使われているショット数に倍以上の違いがあるのだ。しかも、時間としては映画のライヴ・シーンの方が短い。そこで、両者を同じ条件で比較するために、ショットの平均持続時間(ASL=Average Shot Length)を求めてみることにしよう。

 すると、記録映像のASLが7.2秒であるのに対して、再現シーンのASLは2.3秒であることがわかる。ひとつひとつのショットにかけられている時間には平均して3倍以上の開きがあることになる。映画の再現シーンは、“スーパーソニック”な編集をクイーンの音楽と結びつけることで映画のグルーヴを増幅させ、観客に時間的な短さを感じさせないようにしていたのである。

 もちろん、単に短いショットを畳み掛ければ即座に観客に高揚感をもたらすことができるわけではない。それほど単純な話なら、あらゆる映画のASLはもっと短くなっているはずだ。ライヴ・エイドの再現シーンがすぐれているのは、そこに組み入れるショットの選択が絶妙だからである。このシーンには、じっさいのライヴでは撮影できないようなショットが大量に紛れ込んでいる。

記録映像にはなかったスタジアムの「外」の様子

 それはどのような種類のショットだろうか。もっとも象徴的なのは、会場となったウェンブリー・スタジアムの「外」にいる人々を写したショットである。ショット数で言うと、これが25ほどにのぼる。ライヴの「完璧な再現」を謳うからには、スタジアムの内部(ステージおよび観客席)の映像のみで完結させるのが本来だろう(じっさい、記録映像はすべてスタジアム内のショットで構成されている)。だが、映画はライヴと直接には関係しないはずの映像を取り入れることによって、ライヴの「完璧な再現」を目指しているのだ。

 スタジアムの外の映像としてどのようなものが映し出されているか、その内容を具体的に見ていこう。まず、バーのテレビでライヴを見ている人々を写した一群のショットがある。バーの人々のショットは、スタジアムの観客のショットに織り交ぜられて編集されている。たとえば、「レディオ・ガガ」の演奏場面では、フレディのパフォーマンスに対してスタジアムの観客たちが両手を挙げて応えるが、同様の反応を示すバーの人々のショットがここに挿入されているのである。

劇中のバーの人々は我々観客を”教育”している

 スタジアムの観客とバーの人々の反応が同じなのであれば、ことさらバーの人々を写す必要はなかったのではないか、と思うかもしれない。しかし、筆者の考えでは、バーの人々を写したショットはこのシーンに絶対に必要なものである。なぜなら、テレビの画面越しにクイーンのパフォーマンスを見ている劇中のバーの人々は、映画のスクリーン越しに同じパフォーマンスに見入っている我々観客の立場そのものだからである。スタジアムで生の演奏を見ている観客と、その様子を見ている映画観客との間にはスクリーンという絶対的な境界線が引かれている。劇中でライヴをテレビ視聴する人々には、スタジアムと映画館を媒介し、映画観客にこの境界を乗り越えさせるための蝶番としての役割が託されているのである。

 あるいは、こう言ってよければ、映画の観客は、スクリーンに映し出される自らの似姿を通して、ライヴのパフォーマンスにどのような反応を示せばいいのかを教育されているのだ。我々は、劇中の観客と同様に、熱狂をもって応えればいいのである。各地で好評を博している本作の「応援上映」は、映画による教育が見事に奏功している証左である。

「ウィ・ウィル・ロック・ユー」削除 3つ目の「ウソ」の意味

「観客」の問題をもう少し見ていこう。クイーンが「観客との交流」を重視していたことは映画内でも繰り返し強調されている。ライヴ・エイドの再現シーンでは、その「観客」の範囲を映画の観客にまで拡張しようと試みているのである。じっさいのライヴ・エイドで演奏された「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を再現シーンから削除するという劇中の「嘘」は、実はこの読みを裏付けてくれる。

「ウィ・ウィル・ロック・ユー」の誕生を描いた本編映像

 2度の足踏みと手拍子によって観客のライヴへの参加を可能にした「ウィ・ウィル・ロック・ユー」のパフォーマンスは、劇中でも作曲過程からライヴの成功までを詳しく描き出している。だからこそ、ライヴ・エイドのシーンからはこの曲が削除されたのである(もう一度繰り返すのは蛇足になってしまう)。もちろん、映画の尺の問題はあるだろうが、そこで真っ先に切られたのが「ウィ・ウィル・ロック・ユー」であったことは必然と言っていい。

「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を埋めたオリジナルシーン

 なぜなら、映画は「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を消去する代わりに、フレディの発声による「エーオー」のコール&レスポンスによって「観客との交流」というテーマを十分に展開しているからである。もちろん、このパフォーマンス自体はじっさいのライヴ・エイドでも行われているが、映画はこのパフォーマンスを劇中のほかのシーンと連関させているのである。劇中で「ウィ・ウィル・ロック・ユー」をライヴ演奏した際、フレディは最後にこのコール&レスポンスのパフォーマンスを短く2度だけ行なっている。

 この「エーオー」は、フレディがエイズの診断を下された際、廊下ですれ違った別の患者(おそらくはフレディのファン)の呼びかけに応えるという形で変奏されてあらわれる(これは映画オリジナルのシーンである)。最後のライヴ・エイドのシーンでフレディが見せる圧巻の「エーオー」は、直前に置かれたこのささやかなコール&レスポンスを大掛かりに反復したものなのである。エイズの告知シーンでファンからの呼びかけに小さく応えたフレディが、今度はファンに向けて全身全霊のパフォーマンスで呼びかける側にまわっているのだ。

“民主主義的な”ショット配分 4つ目の「ウソ」の意味

 映画が「観客との交流」と並んで重要視しているのが「家族の物語」である。全篇の集大成とも言うべきライヴ・エイドのシーンでこのテーマを打ち出すために、映画は4つ目の「嘘」をついている。それはまず「バンドは家族」であることを映像的に示すところから始められる。このシーンは、ウェンブリー・スタジアム全体を見下ろすカメラが、超満員の観客の上を舐めるように滑っていき、ステージ上でピアノを奏でるフレディの顔のクロースアップを捉えるまでをひと続きに収めた華麗なショットによって幕を開ける。

 フレディのクロースアップに続いて映し出されるのは、クイーンのメンバーであるジョン・ディーコン(ジョー・マッゼロ)、ロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)、ブライアン・メイ(グウィリム・リー)をそれぞれ単独で捉えたショットである。このあと、再びフレディのショットに戻って、今度はブライアン、ロジャー、(間にもう1度フレディを挟んで)ジョンの順に再びメンバーのショットが続く。このきわめて「民主主義的」なショット配分は映画独自のものであり(記録映像のカメラはもっぱらフレディを追い続けている)、バンド=家族の対等な関係性を示唆している。

 映画のカメラはバンドのメンバー以外にも向けられる。ライヴ・エイドのシーンには、ステージ脇からパフォーマンスを見守るフレディの元恋人メアリー・オースティン(ルーシー・ボイントン)と“友人”のジム・ハットン(アーロン・マカスカー)、マネージャーの“マイアミ”・ビーチ(トム・ホランダー)を捉えたショットが複数回にわたって挿入されている。彼らも広い意味でフレディの家族と言うべき存在であり、このシーンは彼/彼女たちをきちんと物語化して提示している。

なぜクイーン演奏中に寄付が集まったように見せたのか?

 もちろん、映画はフレディと実の家族とのつながりを強調することも忘れない。このシーンには、自宅のテレビでライヴの様子を見ているフレディの家族のショットも挿入されている。とりわけ母親の存在は重要である。ライヴの直前にジム・ハットンとともに実家を訪れたフレディは、その帰り際に「ステージからママに投げキスを送る」と約束しており、映画ではじっさいにそれが果たされている。ライヴの最後の曲である「伝説のチャンピオン」を歌い終えたフレディは、観客席=カメラに向かって投げキスを飛ばす。すると、画面はそれを受けとめる母親のショットに切り返されるのである。母親はその場にはいないので、これは映像のうえでだけ成り立つ偽の切り返しである。このショット編集の妙によって、映画の観客にはフレディと母親の「交流」が成就したことが理解されることになる。

 また、ライヴ・エイドが目標としていた100万ポンドの寄付が集まったのがクイーンの「ハマー・トゥ・フォール」演奏中であったかのように描かれている点も、ひそかに家族のテーマと通じている。このチャリティ・コンサートが掲げる「アフリカ救済」という大義は、やはり直前のシーンでフレディと父親の会話を通して強調されていた。フレディは、父親が息子に望んでいた「善き思い、善き言葉、善き行い」を見事に実践することで、その期待に応えてみせたのである。(※)

『ボヘミアン・ラプソディ』は再現ではなく、映画的勝利

 ここまで見てきたように、ライヴ・エイドのシーンは、「完璧な再現」などではまったくない。このシーンには映画的な潤色がふんだんに施されており、劇中で展開されたテーマや伏線を回収する場として効果的に機能している。これによって、観客は物語世界への没入を強力に促され、満足感を得ることができる(同時にクイーンのコアなファンや批評家たちはこの物語に乗り切れなかったと考えられる)。だからこそ、このラスト・シーンは多くの観客に「完璧な再現」という虚構を信じ込ませることができたのである。これを見事な映画的“勝利”と言わずして何と言おうか。

脚注

(※)フレディが飼っている猫たちもまた家族の一員として登場している。映画は、自宅のテレビ画面を通してライヴ・エイドの様子を見守る猫たちの姿さえ映し出しているのである(劇中で随所に顔を覗かせるこの猫たちに魅了された観客は少なくないだろう)。

「交流」や「家族」というテーマに即してシーンの細部を検討してきたが、これら以外にも、映画にしか見られないショットがいくつか存在する。たとえば、「ボヘミアン・ラプソディ」のシングル・カットに強硬に反対した音楽会社の社長(マイク・マイヤーズ)のショットが差し挟まれている。社長の読みとは裏腹に、「ボヘミアン・ラプソディ」は大成功を収め、クイーンは世界的なロックバンドへと成長していった。しかし、鳴り響く電話のベルを無視して憮然とした表情を浮かべているかに見える社長は、実はひそかにそのような事態を喜んでいるのかもしれない(周知の通り、社長役のマイヤーズ自身はクイーンの大ファンである)。

2018年エンタメ部門BEST5結果一覧

1位 木村拓哉が二冠達成! 業界関係者100人に聞いた「好きなジャニーズ」「苦手なジャニーズ」結果発表

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2位 賛否両論の『ボヘミアン・ラプソディ』5回見てわかった「ラスト21分」4つのウソ

http://bunshun.jp/articles/-/10173

3位 安室奈美恵はなぜ沖縄で「引退」を迎えるのか

http://bunshun.jp/articles/-/10172

4位 「2年間、俳優活動を休止していた」大沢たかおがロンドンで語った意外な事実

http://bunshun.jp/articles/-/10170

5位 上沼恵美子M-1騒動 問題の本質は「女帝を怒らせたこと」じゃありません!

http://bunshun.jp/articles/-/10169

(伊藤 弘了)

引用元